【連載シリーズ】ビールを美味しく飲むためにビールのことをもっと知ろう! −最終話、ビールマニアへの最後の登竜門!?ビール専門用語集
【15分でサクッとわかる!】ビール通のあなたに贈る日本のビール歴史大百科 −日本初ビールの誕生からクラフトビール勃興まで
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今回の登場人物
トモハル 福島県郡山市生まれ。ヨコハマ在住。歴史関連に強みがある。歴史能力検定2級(世界史)を習得している。現在は歴史能力検定の日本史2級とビール検定に挑戦中。最近は自炊で焼うどんの魅力にハマり中。
日本人にとって、もともとビールは西洋から伝来したものでありますが、現代では日本酒、焼酎などと並ぶメジャーなお酒のひとつとなりました。今回は日本においてのビール史についてターニングポイントをご紹介していきます。これを読めばあなたも「ビール博士」と呼ばれるかも!?最後まで是非ご覧ください。
日本のビール史の夜明け
江戸時代中期:ビールという飲み物を知る日本人
日本のビール史を振り変えると、「江戸時代が日本のビール史のルーツ」になります。江戸時代の日本は外国との交易を制限していた鎖国時代。『ビール』というのは交易を許されていた長崎にある出島を通して知られました。しかし、鎖国時代の日本でビールが国内に広がるのは少し先になります。
初めてビールを飲んだ日本人が登場するのは江戸時代の中頃。江戸幕府第8代将軍である『徳川吉宗』の時代です。1724年に今村市兵衛氏、名村五兵衛氏の2名が『和蘭通詞(ヨミ:オランダツウジ)』という書物にビールを長崎の出島で飲んだ日本人の感想として記録されています。ビールを飲んだ感想が「全く口に合わない」と酷評のようでした。
日本最初のビール醸造が行われたのは1812年。オランダ人の商館代表ヘンドリック・ドゥーフ氏の手により長崎県の出島でビールが醸造されました。その後時は流れ、江戸で最初のビール醸造がされたのは幕末期の1853年、蘭学者の川本幸民氏が行ったものと言われております。
それまでは一部の日本人にしか知られていなかったビールですが、本格的にビールが日本に参入してきたのは黒船来航によるものです。イギリスやアメリカの船舶が来航するようになってからビールは広がりを見せました。
幕末期:世間に浸透し始めるビール
1858年6月、日本はアメリカとの日米修好通商条約を結ぶと、他の西欧諸国とも同様の条約が結ばれました。この条約により横浜、長崎などが開港されます。
幕末期の横浜は当時日本最大の貿易港。1861年にジャパン・ヘラルド社から発行された週刊新聞『ジャパンヘラルド』の広告には日本で外国のビールが輸入及び販売されていたという記録が残っています。また、1865年には横浜で『ビア・アンド・コンサートホール』という現在のビアホールのような業態の、居留地に住む外国人向けのお店がオープンしました。幕末期の横浜にはビールが単なる飲み物ではなく、ビールを楽しむ文化というのが定着しており徐々に世間にも受け入れられ始めました。
明治期:ビールの勃興期
江戸時代が終焉を向かえ、明治時代になるとビールはさらに日本各地に広がっていきます。1870年(明治3年)、アメリカ人のウィリアム・コープランド氏は横浜の山手居留地に『スプリング・バレー・ブルワリー』というビール醸造場を設立し、ビール醸造及び販売を開始しました。
1872年には大阪で渋谷庄三郎氏がビール醸造を始め『渋谷ビール』という銘柄のビールを販売します。この出来事がきっかけで日本のビール醸造所設立が増えていき、北海道では1876年に『開拓使麦酒醸造所』が設置されました。
開拓使麦酒醸造所では、日本人で初めてドイツのビール醸造技術を習得した中川清兵衛氏の指揮により、1877年にサッポロビールの起源である『札幌冷製ビール』が誕生します。ラベルに描かれた星のマーク『北極星』は札幌麦酒伝統のシンボルとなりました。
ここから日本のビール産業が大きく成長していきます。
大手ビールメーカー前身史
文明開化の明治時代。船来品であるビールを飲むことは「文明開化を具現化したシンボル」とみなされました。明治時代の中頃になると国内で生産されたビールが流通されるようになり、現在まで残る大手ビールブランドの前身の会社が相次いで設立されました。
代表的なのは以下の4つです。それでは1社ずつご紹介していきましょう。
- 1885年:ジャパン・ブルワリー・カンパニー(キリンビールの前身)
- 1887年:札幌麦酒会社(サッポロビールの前身)
- 1887年:日本麦酒醸造会社(ヱビスビールの前身)
- 1889年:大阪麦酒会社(アサヒビールの前身)
ジャパン・ブルワリー・カンパニーの誕生
1885年に、横浜でビール文化を定着させたスプリング・バレー・ブルワリーの土地を引き継いでジャパン・ブルワリー・カンパニーが設立され、1888年には『キリンビール』を販売しました。1907年には岩崎家、三菱合資、明治屋関係者らによってジャパン・ブルワリー・カンパニーを創業状態のまま引き継いで『麒麟麦酒株式会社』が創立されたのです。
1885年頃の横浜山手工場はこちらから
出典:https://www.kirin.co.jp/company/history/group/g1.html
キリンビールのラベルはこちらから
出典:https://www.kirin.co.jp/company/history/group/g1.html
札幌麦酒会社の誕生
1887年に、大倉組札幌麦酒醸造場は政財界に多大な影響力を持つ渋沢栄一氏、浅野総一郎氏らに事業譲渡され、札幌麦酒会社が設立されます。1888年には熱処理ビールである『札幌ラガービール』が発売されました。
日本麦酒醸造会社の誕生
1887年、麦酒事業の将来性に着目した投資家が集い、日本麦酒醸造会社が設立されます。1889年には株主として三井物産会社の幹部らが名を連ねました。ビールの醸造設備はドイツから購入され、1890年『恵比寿ビール』が誕生されます。
大阪麦酒会社の誕生
1889年になると大阪・堺の酒造家である鳥居駒吉氏や、実業家の松本重太郎氏らによって、大阪麦酒会社が設立されました。その後創業から3年目の1892年、日出づる国に生まれたビールへの誇りと、旭日昇天のごとき発展を願って『アサヒビール』は生まれました。また、1897年には日本で初めての本格的なビアホール『アサヒ軒』がオープンされ賑わいを見せました。
以上が代表的な会社の前身の紹介となります。 1901年になると『麦酒税』が導入され、中小ビール醸造業者の大半が廃業を余儀なくされました。こうして豊富な資金力がある、横浜のキリンビール、北海道のサッポロビール、東京のヱビスビール、大阪のアサヒビールといった、日本を代表する大手ビールブランドは一般消費者に根強く愛されるようになっていったのです。
1885年~1889年の時期に大手麦酒ブランドの前身の会社がそろうとういうのは不思議な縁があるかもしれませんね。この4社による販売競争はどんどん激しくなっていきました。そんな中、『大日本麦酒株式会社』が誕生するのです。
東洋最大、大日本麦酒株式会社の誕生
日本麦酒の社長馬越氏は当時トップの座を競っていた札幌麦酒の会長渋沢氏、大阪ビールの社長鳥居氏らに「競争するよりも団結すべき」と論じます。馬越の考えは各社が合同することで一致し、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒3社の合同を果たし、1906年、東洋最大のビール会社になる大日本麦酒株式会社が発足されました。
戦後ビール史
東洋最大のビール会社となった大日本麦酒株式会社ですが、 戦後1949年には『過度経済力集中排除法』の適用により以下の2社に分割されます。
- 日本麦酒株式会社
- 朝日麦酒株式会社
この時、日本麦酒は『サッポロビール、ヱビスビール』の継承、朝日麦酒は『アサヒビール』を継承しました。
サッポロビール株式会社の誕生
サッポロビール、ヱビスビールの継承権を引き継いだ日本麦酒でしたが、日本麦酒は新たに『ニッポンビール』という新ブランドを発売しました。しかし新ブランドのブランド力は弱く、ビール市場が膨らむ一方で、日本麦酒だけが苦しい状況が続いてしまいます。こうして市場を急激に落とした日本麦酒は、1956年に北海道で『サッポロビール』を復活販売しました。また、1957年にはサッポロビールの全国展開を開始し、1964年に社名を日本麦酒からサッポロビール株式会社に変更します。1971年には戦前、人気を博していた『ヱビスビール』を28年ぶりに復活させ、販売しました。
日本初の缶入りビール、アサヒビール販売
朝日麦酒は1958年に日本で初めて缶入りのビールである『アサヒビール』を販売します。さらに1971年には日本初のアルミ缶入りビールを発売するなど、数々の日本初を生み出してきました。
キリンブランドの構築
麒麟麦酒は原点である『キリンビール』を販売し、キリンブランドのイメージを世間に染み込ませることができました。1954年にはキリンビールが年間庫出量でトップシェアの獲得を果たします。日本が高度経済成長期に突入するとビール需要は劇的に伸び続け、年間平均成長率は20.6%にもなりました。そんな中キリンビールの躍進は続き、1972年、キリンビールの消費量は市場シェア60%を占めるようになるのです。
高度経済成長期のキリンビールはこちらから
出典:https://www.kirin.co.jp/company/history/group/g6.html
サントリー参入による4社体制の確立
日本のビール業界を牽引してきた、キリンビール、サッポロビール、ヱビスビール、アサヒビール。彼らから見ると後発になりますが、1963年、サントリービールが誕生します。ウィスキーで築き上げた人脈や販売ルートを網羅し、当時2代目社長である『佐治敬三』氏が大きなチャレンジとしてビール業界に参入しました。同年、会社名を寿屋から『サントリー株式会社』に変更しています。
こうして、大手ビールメーカー4社のビール製品による日本独自のビール文化が形成されました。
1980年~1990年史
1985年以降になると、大手4社は新製品の開発及び販売を行い、激しい販売競争を繰り広げます。その中で、1987年日本のビール史に残る衝撃的な出来事が起こります。
スーパードライ爆誕!
当時の朝日麦酒が発売した日本辛口生ビール「アサヒスーパードライ」が予想をはるかに超える大ヒット作になり、他の大手他社も『スーパードライ』に追随しようとドライ戦争が勃発しました。1989年には朝日麦酒から『アサヒビール株式会社』へと社名を変更しました。
キリン一番搾りの登場
アサヒスーパードライの大ヒットは競合各社の商品開発にも影響を及ぼしました。麒麟麦酒では1990年に社運を賭けた商品『キリン一番搾り生ビール』を発売。麦汁ろ過工程で最初に出る一番搾り麦汁だけを使ったビールは、世間やメディアに大きな関心を呼び大ヒット商品になりました。
発売時のキリン一番搾り〈生〉ビールはこちらから
出典:https://www.kirin.co.jp/company/history/group/g9.html
各社商品開発にしのぎを削る中、1990年、ビールの価格に大きな変化が訪れます。大手ビールの各社が「希望小売価格は参考価格」と告知したことで、希望小売価格は強制でないことを示しました。そこから、1994年にビール史に残る大きな出来事が起きます。
地ビール文化の繁栄と衰退史
1994年に酒造法が改正され、1年間で製造できる量は『最低60キロリットル』となりました。このおかげで小規模醸造業者でもビールを醸造することができるようになったのです。地元の観光スポットを中心に醸造されたビール。略して『地ビール』が全国各地で商品の販売が始まったのが1995年でした。この年は「地ビール元年」と言われております。
今回、地ビールの先駆けと言われている地ビールブランドの一つ、銀河高原ビールを紹介します。
地ビールブームを牽引した『銀河高原ビール』
東日本ハウス株式会社の創業者である中村功氏が、1996年に銀河高原ビール株式会社を設立しました。『銀河高原ビール』はドイツ産の麦芽、ホップを使用し、現在の岩手県西和賀町の和賀岳の雪解け水を使用したビールになります。ドイツの『ビール純粋令』という格式高いビール製造に基づいて造られた、副原料を一切使用しないビールです。
岩手県出身の作家『宮沢賢治』氏の生誕100周年記念として誕生され、設立メンバーは欧州やアメリカのビール醸造所を視察されました。そして、ビールの本場であるドイツから技術指導を受け、ビール醸造の設備もドイツ製のプラントを導入。高い醸造技術から消費者からも人気の地ビールとしてブランドの地位を築きました。
現在では2020年3月31日の出荷をもって『銀河高原ビール・小麦のビール(缶)』以外の製品は販売終了となり、親会社であるヤッホーブルーイングでの醸造及び販売という形式で銀河高原ビールブランドは継続されています。
地ビールブーム厳冬期
地ビールブームは長く続きませんでした。観光客を誘致する目的で造られたビールも多かったため、ビールの品質水準が決して良いとはいえないビールが存在していたのも事実でした。2000年頃になると、地ビールに対するイメージは悪化の一途を辿り「価格が高くて、不味い」というイメージがつきやすく、この頃から全国各地で盛んに行われていた地ビール醸造所が廃業に追い込まれるケースも増えていきます。
地ビール人気が下降する一方で、一部の醸造所では美味しいビールを造るために試行錯誤を繰り返しながらもビールの研究をし続けました。ブームとなった小規模醸造業者でのビール醸造が再ブレイクするのは少し先になります。1990年代後半〜2000年代の頃は地ビールに冬の時代が来ていたのです。
花開くクラフトビール文化
小規模醸造業者の中では暗い時代となった1990年代後半から2000年代。その後『地ビール』は『クラフトビール 』という名称に変わって消費者の人気を取り戻していきます。
2010年代を起点に、小規模醸造業者が造るビールの品質が劇的に向上しました。地ビールブームの時は「地元の特産品」という側面が強く、観光地のお土産用としてのビールというイメージが広まっていましたが、ビールの品質にこだわりを持ち、海外の製法や副原料の使い方などを研究したビールが誕生していきます。
このようなビール醸造所と、流行に敏感な飲食店とのコラボレーションが良い結果を招きクラフトビールを扱う飲食店の業態が広がり始めました。ビールに合わせた和食、イタリアン、創作料理などとペアリングをすることで、クラフトビールと食事の相性を限界まで引き出し、それぞれのビールや飲食店の個性が表現できるようになりました。
他にもクラフトビール愛好家主催の音楽に合わせたビアコンサート、町を歩きながらビアパブを巡るツアーなども相次いで開催され、『クラフトビール』という言葉が徐々に世間に知れ渡るようになっていきます。
2011年には様々なクラフトビールを均一価格飲むことができるビールの専門店『クラフトビアマーケット』が東京虎ノ門にてオープンしました。
以前BANSHAKU編集部で取材した、クラフトビアマーケット虎ノ門店の記事はこちら
料理雑誌である『料理通信』2012年1月号では「満席のビアバルとクラフトビール」という特集が組まれ『クラフトビール』という名称が爆発的に広がりました。
2018年の酒税法改正では「果実」「果汁」「香辛料」など、様々な副原料をビール造りに使用することが認められるようになりました。この法改正で、ビールの新たなステージが開かれたように思えます。
そもそもクラフトビールって何?
日本ではクラフトビールを明確に定義している機関はありません。そのため、あくまでも筆者が感じている言葉の定義になりますが、クラフトの意味は「技術」「職人技」「工芸」を指します。言い換えると「こだわり」になるのではないでしょうか。こだわりが重視されますので、クラフトビール は品質第一なのが魅力です。ビール職人さん達の熱いこだわりが込められているビールなので「クラフトビール」と名付けられているのだと思っています。
クラフトビールは大量生産を実現することは難しいです。ビールの造り手の「こだわり」や「品質」をプライオリティとしているためです。日本のクラフトビールは、地ビールとして生まれたビールが、栄枯盛衰を経て生まれ変わった「価値の高いビール」なのではないでしょうか。
自分好みに合うクラフトビールを求める時代へ。
現代ではSNSやスマートフォンの普及により日本の地方から世界まで、自分好みのビールを探すのが簡単になりました。クラフトビールは種類が豊富で味、色、ラベル、パッケージなど各社オリジナリティがあり、飽きることが全く無いです。また、ビール職人達が心血を注いで造りあげたビールには特別な感情が芽生え、熱狂的なファンコミュニティも存在しています。
まとめ
今回は日本においてのビール史についてターニングポイントをご紹介しましたがいかがでしたでしょうか?日本のビール史のポイントは以下4つになります。復習し明日から飲み会のネタにしていきましょう。この記事を通して日本ビールの歴史に少しでも関心を持っていただけましたら嬉しいです。それではまたお会いしましょう!
- 江戸時代中期~明治時代初期、ビールへの関心の高まり
- 明治中頃から現在まで続く、大手ビール会社体制の確立
- 地ビールの幕開けと衰退
- 自分に合うビールを求めて、クラフトビールの登場
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